ローリー日本語補習学校 40周年記念誌
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 私が最初にローリー⽇本語補習学校に⾜を踏み⼊れてから10年が経つ。 夏休みがちょうど明ける頃で、現地校よりも数⽇前に補習校で「学校⽣活」がスタートした。熊本で⽣まれ育ち、海外経験もない私にとって、得意な⾔語も各国の滞在歴もバラバラで、⽇⽶に限らず様々なバックグラウンドを持つ⽣徒が混在する状況は強烈だった。転⼊⽣というマイノリティ意識も相まって、すっかり⾝構えたのも今となっては懐かしい。 本稿の依頼をいただき、⾼等部で過ごした3年間を思い出してみた。運動会や卒業式の写真、今も連絡をとる恩師の諏訪先⽣とのメールを⾒返す中で再会したのは、慣れない異⽂化に晒される中、よく飽きもせず毎⽇必死で悩んでいた、10代の⾃分だった。 4年間のNCでの⽣活は、あっという間で、思い出すたび胸が苦しくなる程眩しかった反⾯、常に焦ってもいた。「もし⽇本に残っていたら得られたであろうなにか」よりも、「アメリカで過ごす中で得らえるなにか」を上回らせることばかり考えていた。 当時のあらゆる悩みの根底には、あやふやな⾃分の輪郭に対する不安があったのだろうが、諏訪先⽣はその⼀つ⼀つの悩みに正⾯から向き合ってくれた。補習校で過ごす時間は週末に限られても、宿題で提出する作⽂や発表の内容、こっそり打ち明ける悩みから、先⽣は私をよく理解してくれていた。渡⽶直後から担任だったこともあって、少し前の⾃分との差分を⽰してくれるのも、悩み考える上で⼼の⽀えだったのは間違いない。 なぜこのエピソードが重要かというと、「⾃分が最も深く考えられる⾔語で、悩み、考え尽くした経験」が今の私の基礎になっており、補習校はそのプロセスに⽋かせなかったからだ。⽇々の忙しさにかまかけず、⽇本語で考え尽くす経験は、⾃⼒では不可能だったと思う。ましてや慣れない現地校に四苦⼋苦する中では、補習校がなければ、あれほど「考える」経験はしなかっただろう。 今でもたまに、私がアメリカ⽣活で得ようとしていたなにかとは何だったんだろう、そして私はそれをちゃんと掴んで帰ってこれたのだろうか、と考える。その答えがわかるまではもう少し時間がかかりそうだが、あの頃の悩みを懐かしく、そして爽やかに振り返られること、あの⽇悩みもがいた経験が今につながっていると確信できることが、補習校が私にくれた贈り物のような気がしている。江原初奈2014年度卒業⽣

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